「私立医大御三家」として知られる東京慈恵会医科大学。同大の創立者はなんとあの日本の国民食を広めたひとりとしても知られています。教育ジャーナリストの中山まち子さんが解説します。
歴史は約140年
東京の大学は「MARCH(明治大学、青山学院大学、立教大学、中央大学、法政大学)」などの大学群で多く語られがちですが、同じように医学部でも戦前の旧制医科大学時代からの私立医大御三家(慶応義塾大学、東京慈恵会医科大学、日本医科大学)があります。
これらは1920(大正9)年の慶応義塾大学(港区三田)を皮切りに、いずれも1920年代に大学の認可を受けた伝統ある医科大学です。
三つの大学のうち、1921年に大学となった東京慈恵会医科大学(港区西新橋)は私立の単科医科大学として最古の歴史を持ちます。
現在は西新橋キャンパスと国領キャンパス(調布市国領町)の2キャンパス体制で医学部医学科と看護科、大学院を有しています。
大学となったのは今から約100年前ですが、東京慈恵会医科大学の歴史はそれよりももっと古い1881(明治14)年までさかのぼることができます。
同大の歴史と日本の医学界は、創立者である海軍軍人で医学博士の高木兼寛(かねひろ)とイギリス人医師との出会いがなければ、全く違ったものになっていたかもしれません。
イギリスとの不思議な縁
高木兼寛は現在の宮崎県宮崎市高岡町出身で蘭方医学を学び、戊辰(ぼしん)戦争の際には薩摩藩の軍医として転戦していました。
戦いが終わり、時代は明治へ。高木は故郷の薩摩に設立されたばかりの鹿児島医学校(現・鹿児島大学医学部)に入学し、そこで校長をしていたイギリス人医師ウィリアム・ウィリスから医学や英語を学びます。
その後、海軍の軍医として勤務することになりましたが、ここでもイギリス人医師との出会いがありました。
海軍病院の付属学校の位置づけとして増設された海軍病院学舎の教員として来日したウィリアム・アンダーソンは高木の優秀さを認め、母校であるセント・トーマス病院への留学を薦めたのです。
理想をかなえるため医療機関を設立
留学先のセント・トーマス病院は研究第一主義ではなく、病人を治療する臨床を優先する病院でした。
貧しい病人を無料診察できるシステムがあったり、病院内にはナイチンゲールが設立した看護学校もあったりするなど、日本の医学を取り巻く環境との違いを目の当たりにしました。
留学先でも極めて優秀な成績を残した高木は、5年間の月日を経て帰国。海軍の軍医として勤務する傍ら、自分の理想とする医師養成機関と医療機関の設立を立ち上げることに。
1881(明治14)年に東京慈恵会医科大学の起源となる成医会講習所、翌年には有志共立東京病院を設立しました。
医師養成機関と医療機関をほぼ同時期に設置できたのも、高木の並々ならぬ情熱があったからと言えます。
脚気治療のために考案されたカレーライス
高木兼寛を語る上では外せないのが、明治期、多くの軍人を悩ましていた脚気(かっけ)問題です。
脚気とはビタミンB1の欠乏によって起こる栄養障害性の病気で、高木は食事療法というそれまで誰も考えなかった手法で、問題解決の糸口を見つけました。軍内の階級ごとの発生率を調べるなかで、食事内容の違いが原因という仮説を導き出したのです。
高木は留学先のイギリス海軍で作られていた、日本で馴染みの薄かったカレーシチューをアレンジし、麦飯と白米を混ぜたご飯とともに海軍の航海演習時に提供しました。
このとき提供されたものが、現在の日本のカレーライスのルーツと言われています。
その結果、海軍を悩ましていた脚気罹患(りかん)者は激減しました。
ウイルス説が優位であった時代にデータ分析を行い、食事内容を変えるという試みを行った高木の功績はもっと広く知られるべきでしょう。
もし、この件に高木兼寛が関わっていなかったり、そもそも高木がイギリス留学していなかったりすれば、カレーライスは日本の国民食として親しまれることはなかったのかもしれません。
看護教育にも注力
また、高木は早い段階から看護教育と人材育成に着手しました。
医師養成以外に、患者と接する機会の多い看護婦を育てることの重要性を留学時に痛感した高木は、1885(明治18)年に日本で初めての看護学校「看護婦教育所」を有志共立東京病院内に設置しました。
指導者として招かれたのはアメリカ人看護師ミス・リードで、近代的な看護方法を学ぶことができました。なお看護婦教育所は、現在の東京慈恵会医科大学看護学科と慈恵看護専門学校となっています。
高木は1880年代、医師養成機関と病院、そして看護婦養成機関を次々と創設するという離れ業をやってのけたのです。
先人たちが築き上げた歴史と伝統を受け継ぐ
創立者である高木兼寛のイギリス留学が、結果として日本の医学界や食文化に与えた影響はとても大きかったのです。
また彼が医療に関係する機関を立ち上げていなければ、日本の民間レベルの医療体制は随分と遅れてしまったかもしれません。
病人を懸命に治療することは医療現場の使命ですが、設立当初頃から先進的なシステムを導入した東京慈恵会医科大学の存在は、日本の医学会に大きな影響を与えてきました。
「病気を診ずして病人を診よ」という言葉を掲げ、創立者の高木が抱いた理念は現在も受け継がれています。