丸い缶の蓋を開けると、三角形をした艶やかな飴が現れる。昭和世代にはそんなイメージの強い榮太棲飴の誕生は江戸期の安政年間。そのヒットの背景に、江戸庶民の気質とのつながりがあるようです。
江戸期は魚河岸の人びとに人気、明治、大正は京の芸妓たちにも
昭和世代なら、「は〜い 榮太樓(えいたろう)です♪」というCMソングに聞き覚えがある人も少なくないのでは。榮太樓總本鋪は、改名前の「井筒屋」の時代から数えて創業200年となる老舗です。
その商品ラインナップで、広く、そして長く親しまれてきているものに「榮太樓飴」があります。丸い缶の蓋を開けると、三角形をした艶やかな飴がゴロゴロと入っている。そんなイメージを持っている人も多いことでしょう。
榮太棲飴の始まりとなったのが「梅ぼ志飴」です。江戸の安政年間(1854〜1860年)に、同社創業の地、日本橋で売り出されました。江戸期から平成まで、いくつもの時代を超えて人びとに親しまれてきた裏には、どんな背景があるのでしょうか。
江戸期、京都で茶席のお菓子として使われてきた有平糖(あるへいとう)は、成形に高度な職人技が必要とされる、高価なものでした。それを「庶民も口にできる安価なお菓子に」との創意工夫から生まれたのが梅ぼ志飴です。
固まる前の紅着色の飴をはさみで切り、指でつまむと三角形になります。柔らかいためつまんだ部分にシワがより、それを目にした江戸っ子が、梅干しに似ているとして「梅ぼ志飴」と呼んだことが命名につながりました。
何も知らずにその名と色を見ると、酸っぱいものを想像しがち。それが、口に入れると意表を突いて甘い。江戸っ子らしい、そんな粋な「シャレ」もこの名に込められているそうです。
その当時、ちまたにあった水飴はすくって食べるもので手軽さがなく、それでいてすぐに食べ終わってしまうものでした。しかし、梅ぼ志飴は口の中に放り込むだけで楽しめ、しかも口の中でその美味しさが長持ちします。それが魚河岸で忙しく働く人たちに人気となりました。
また、化粧品の乏しかった明治・大正の頃には、上方の芸妓・舞妓たちが梅ぼし飴を唇に塗ってから口紅をつけるとノリがいいとして、東京土産にねだったという逸話もあるそうです。そのため、芸妓や舞妓をひいきにしている旦那衆の多くが梅ぼ志飴を買い求めたとか。
透明感ある紅色の三角形が洒落(しゃれ)ていて、鏡台の引き出しにちょっと入れておき、口紅の下地ほか、空腹の足しにするのに良かったことも、芸妓たちの気を引いた理由のひとつだったのではないでしょうか。
榮太樓總本鋪の商品は梅ぼ志飴以降、黒飴、抹茶飴、紅茶飴と続きました。同社広報部長の石倉賢一さんは、これらが時代を超えて親しまれてきた理由に、本質的に人の体になじむ、砂糖、水飴、水の3つの自然素材で構成された、飽きのこない味わいであったことを挙げます。
一番人気の黒飴は、沖縄の離島(波照間島、西表島、小浜島)の黒糖を100%使用しており、昭和期には職人が島を訪れてサトウキビ作りから参加。本土の人びとの口に合う黒糖を作りあげてきたそうです。
同社の飴の製造で今もって職人のさじ加減が必要なのは、榮太樓飴のみだそうです。水飴を煮詰める時の温度の上げ方、煮詰めを止めて冷ましにかかるタイミングなど、職人の目で見計らって管理する昔ながらの製法を守り続けています。
果汁飴が人気、江戸気質に鍛えられたこだわりは今も
平成に入ってから、のど飴とバニラミルク飴がラインナップに加わりました。しかし、嗜好が多様化し、老舗も次々に新しいもの、話題性のあるものを打ち出していかなければ、生き残っていけない時代。同社の飴で売り上げ額の上位は、量販店向けに製造している「しょうがはちみつのど飴」「黒みつ飴」などに推移しているそうです。
そのなかで2013(平成25)年、無香料・無着色のフルーツキャンディ「果汁飴」が榮太樓シリーズに加わりました。着色料や香料を使わず、特殊な作り方によって果物本来の味わいを楽しめるものに仕上げています。
口にしてみると、確かに雑味ない果物そのものの味が感じられ、優しい口当たり。他の榮太樓飴と同様に素直に「美味しい」と感じられ、同シリーズの味と質へのこだわりが実感できます。
京菓子は公家や寺社へ納める菓子、茶席の菓子として、四季や京文化をモチーフに五感で楽しむものとされてきました。一方の江戸菓子は、群雄割拠の激戦区で勝ち残っていくために、庶民の好む、わかりやすさやお得感、実質的な美味しさが求められてきた菓子といえます。
そんな江戸気質に鍛えられたこだわりが「飴」というシンプルなもののなかに経年変化なく息づいている。それもまた、榮太樓飴がロングセラーを続けてきた理由なのでしょう。
【榮太樓總本鋪 本店】
東京都中央区日本橋1-2-5
地下鉄各線「日本橋駅」B11出口から徒歩約2分
月曜〜土曜 9時30分~18時
日曜・祝日定休