16世紀に日本に渡来したトウモロコシ。幹が太くて風にも倒れず、寒さに強いトウモロコシは、山間部における貴重な食料となりました。一方、江戸などの都市部ではもっぱらおやつとして食べられていたようです。食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。
江戸時代の吉原名物だったトウモロコシ
しょうゆを塗って香ばしく焼き上げた屋台の焼きトウモロコシ。焼きトウモロコシ屋台は、江戸時代から存在します。
この焼きトウモロコシ、江戸時代の遊郭・吉原の名物。吉原を詠んだ川柳に登場します(以下は渡辺信一郎『江戸川柳飲食事典』1996年刊より)
“もろこしを二本かじって素見物”
素見物とは、店に入らずにひやかして歩くこと。吉原の素見物の際にお供になったのが、焼きトウモロコシとスイカ。
焼きトウモロコシは茎を、スイカは皮を持って片手で食べることが出来るので、見物しながらの歩き食いに最適だったというわけです。
甘い焼きトウモロコシは、吉原の遊女たちにも大人気。
“格子からやきもろこしを惣じまい”
遊郭では、道路に面しているところが壁ではなく格子となっており、その格子越しに遊女たちが客を誘います。この川柳は、格子越しに屋台の焼きトウモロコシを買い求める遊女たちを描いたものです。
“惣じまい”とは、店の遊女全員に客がつくこと。つまり、売り切れ状態。遊女たちが焼きトウモロコシをたくさん買うので、屋台が売り切れ状態になったことを意味します。
浅草名物雷おこしはもともとトウモロコシ製?
代表的な浅草みやげといえば、雷おこし。
真実かどうかはわかりませんが、宮尾しげを『年中行事』(1957年刊)には、雷おこしはもともとトウモロコシ製だったという説が書かれています。
浅草寺には四万六千日という縁日があります。7月9・10日にお参りすると、46,000日参拝したのと同じ功徳を積めるという、大変便利な縁日です。
この日にはほおずき市が立ちますが、1935(昭和10)年までは、ほおずきとともに雷除けの乾燥した赤トウモロコシが売られていました。この赤トウモロコシを破魔矢のように家に飾っておくと、その家に雷が落ちないという信仰があったのです。
ちなみに民俗学者の宮本常一によると、かつての山地では赤いトウモロコシを栽培していたそうなので(宮本常一、潮田鉄雄『食生活の構造』1978年刊)、赤いトウモロコシというのはさほど珍しいものではなかったようです。
さて、 宮尾しげをが述べる雷おこしの由来です。
ある年の四万六千日の縁日に雨がふり、参拝客が少なくなって赤トウモロコシが売れ残りました。余った商品をどうにか処理するために、トウモロコシで「おこし」を作り売ったのが雷おこしの由来だというのです。
浅草ではそれ以前にも原料に米を使った「おこし」は売られていましたが、雷よけのトウモロコシを使ったので「雷おこし」になったというわけですね。ちょっとできすぎな感じの話ですが。
江戸時代からあったポップコーン
さて、トウモロコシからどうやっておこしを作ったのかというと、宮尾しげをによると「はぜさせて砂糖をまぶして」作ったそうです。つまり甘いポップコーンを固めたおこしだったそうです。
これは1712年成立の江戸時代の百科事典、『和漢三才図会』のなんばんきび=とうもろこし。その料理法として、炒って梅の花のようにはじけさせて食べるとあります。つまりポップコーンです。
このようにポップコーンは江戸時代から存在しました。
幕末から明治時代の江戸東京を描いた伊藤晴雨『江戸と東京風俗野史 四』には、はぜうり=ポップコーン売りの姿が描かれています。
当時の江戸東京では、ポップコーンのことを「はぜ」と呼んでいました。トウモロコシの種をはぜさせて食べるからです。
「はぜ」は、砂糖をかけて、三色に色付けしたものを混ぜて売りました。ちょうどひな祭りの三色のあられのようなお菓子だったそうです。