東京の人たちはかつて、精肉店でコロッケやとんかつなどの揚げ物を買っていました。そもそもなぜ精肉店はコロッケやとんかつを揚げるようになったのでしょうか? 精肉店の洋食総菜の歴史をあきらかにした『串かつの戦前史』の著者、近代食文化研究会さんがその歴史について解説します。
東京では精肉店でコロッケを買っていた
現在、夕食のおかず用にコロッケやとんかつを買う際には、専門店やスーパーやコンビニで買うことが一般的です。

ところが昔の東京では、コロッケやとんかつなどの揚げ物総菜は「精肉店で買う」と相場が決まっていました。
それでは
・いつ
・なぜ
東京の精肉店はコロッケやとんかつを揚げるようになったのでしょうか?
普及したのは大正時代末
夏目漱石の子ども、夏目伸六(しんろく)によると、早稲田小学校の前にあった精肉店がコロッケやカツレツを揚げはじめたのは大正時代(『続 父・漱石とその周辺』)。そのころはまだ、精肉店がコロッケを揚げることは珍しかったそうです。
映画監督の山本嘉次郎(『日本三大洋食考』)、紙芝居作家の加太こうじ(臼井吉見著 河盛好蔵編『美味求真生活の本4』)によると、大正時代末から昭和の初めにかけて、ポテトコロッケを揚げる精肉店の数が増えていったといいます。
戦前の西洋料理店は、牛や豚の脂肪から精製したヘットやラードでコロッケやとんかつを揚げていました。

精肉店においては、枝肉から売り物の肉をトリミング(整形)する際に、牛や豚の脂肪が捨てるほど出ます。これを無料で揚げ脂に流用できるのです。
トリミングする際に出る、売り物にならないくず肉も、メンチカツやコロッケに混ぜれば有効活用できます。
豚肉も、そのまま売るよりとんかつにして売ったほうが値段を高く設定でき、利幅が厚くなります。
精肉店にとって、揚げ物総菜はもうかる商品だったのです。
パン粉の普及は大正時代
それではなぜ、明治時代の精肉店は揚げ物総菜を売らなかったのでしょうか?
その理由のひとつは、パン粉が入手しづらく値段が高価だったこと。

この写真は、銀座の老舗そば店「よし田」のコロッケそば。明治時代から存在する元祖コロッケそばですが、コロッケにはパン粉がついていません。素揚げなのです。
・束髪化粧鏡
・日本・西洋・支那三風料理滋味之饗奏
・記臆一事千金(続)
といった明治時代の本のコロッケレシピにおいても、パン粉は使わず素揚げにしています。家庭でパン粉を入手することが難しかったからです。
明治時代の西洋料理店では、おろし金でパンをおろしてパン粉を自家製造していましたが、一般にはあまり流通していませんでした。
全国パン粉工業協同組合連合会編『パン粉百年史』によると、新規パン粉メーカーが乱立し、新しくパン粉店が生まれると必ずと言ってよいほど安売りを始めるようになったのは大正時代。
パン粉が安くなり、気軽に利用できるようになったので、精肉店が揚げ物総菜を作るようになったのです。
揚げ物作りには木炭としちりんが必須だった
関東大震災前の天ぷら店では、巨大な特製しちりんに木炭をくべて、その上に揚げ鍋を乗せて天ぷらを揚げていました。

この巨大しちりんは精肉店に置くには大きすぎますし、何より木炭を使って揚げ油の温度調節を行うことは、熟練の技を必要とします。精肉店が肉を売る片手間に揚げ物を調理することは、木炭としちりんの時代には難しかったのです。
関東大震災後にガスが普及
銀座の老舗天ぷら店「天國」二代目主人露木米太郎によると、東京の天ぷら店が一斉にガス熱源を利用しはじめたのは関東大震災後の大正時代末期です(『天麩羅物語』)。

コンパクトで温度調節が簡単なガス熱源が大正時代末期から普及したことで、多くの精肉店がコロッケやとんかつを揚げるようになったのです。