「子供の不幸繰り返さないで」 麻布十番「赤い靴」の少女像を歩ませた人情の連鎖(前編)

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麻布十番商店街の広場「パティオ十番」には、おさげ髪の少女像が置かれています。その像は童謡「赤い靴」に深く関わっているといいます。いったいどのような背景があるのでしょうか。

目次

像を設置した日から、お金が置かれていた

 1989(平成元)年2月28日。小雨が降る麻布十番商店街(港区麻布十番)のなかにある、ケヤキとトチノキで彩られた広場「パティオ十番」に、おさげ髪の少女像が設置されようとしていました。

「パティオ十番」にたたずむ「きみちゃん」像(2018年6月12日、國吉真樹撮影)

 像の近くで紳士洋品店「ローリエヤマモト」を営んでいる、商店街の広報部長・山本仁壽(きみとし)さん(当時46歳)はその日、自宅と像が設置される場所との間を何度も行ったり来たりしていました。山本さんが落ち着かないのは理由があります。それは3年来の夢がかなうからです。

「うまくいってくれるといいなぁ」

 山本さんは、大学時代にグリークラブ(男声合唱団)で鍛えた、よく通る声でひとりつぶやきました。

 15時過ぎにやっと工事は終了。赤い御影石(みかげいし)でできた胴体に、銅製の頭と両足。像の名前は「きみちゃん」。灰色の台座の上に立ち、遠くを見つめるその瞳は、どこか寂しげです。

平日の昼にもかかわらず、多くの人たちでにぎわう麻布十番商店街(2018年6月12日、國吉真樹撮影)

 その日の夕暮れ時、山本さんは「きみちゃん」の足元に小銭が数枚置いてあるのを見つけました。数えると18円あります。

「誰かが間違って置いていったのかな」

 山本さんの気持ちは翌日、良い意味で裏切られました。小銭はまた置かれていたのです。

「もしや、募金なのかも」

 そう直感で理解した山本さんは、誰もが気軽にお金を入れられるよう、ガラスでできた小さな入れ物を「きみちゃん」の横に置きました。それがすべての始まりでした。

深い悲しみの中で生まれた「赤い靴」の詩

 麻布十番に立つ「きみちゃん」には、岩崎きみという本名があります。1902(明治35)年7月15日に、静岡県不二見村(現・静岡市清水区宮加三)に生まれました。
 
「きみちゃん」のお母さん・岩崎かよさんは、未婚の母として「きみちゃん」を産みました。かよさんはまだ赤ん坊だった「きみちゃん」を連れて、北海道へ。そこで生涯の伴侶となる鈴木志郎さんと出会い、結婚。その後、現在の留寿都(るすつ)村にある開拓農場で働くことになりました。

「ローリエヤマモト」が入るビルに設置された「きみちゃん」のパンフレット(2018年6月12日、國吉真樹撮影)

 しかし、美しくも厳しい北海道での仕事は決して楽ではありません。さまざまなことに追い詰められ、悩んだのでしょう。加えて、これから向かう留寿都村は極寒の地です。ふたりは当時3歳になった「きみちゃん」を、泣く泣く養子に出すことにしたのです。養子先は、アメリカ人宣教師として来日していた、チャールス・ヒュエット夫妻でした。

 かよさんと志郎さんはその後、留寿都村の開拓農場で懸命に働きました。しかし、さまざまな不運に襲われ、1907(明治40)年、ふたりは札幌へ引っ越すことになりました。新聞社に運よく職を得た志郎さんはそこで、のちに詩人として大成する野口雨情と出会い、交流を持つように。
 
 雨情にも、長女をわずか7日間で亡くすというつらい過去がありました。お互い通じるものがあったのでしょう。かよさんはアメリカ人の養女になった「きみちゃん」のことを雨情に話したとされています。自分がお腹を痛めて産んだ娘は今ごろ、遠い遠いアメリカにいるだろう、と。
 
 雨情はその悲しみをヒントに、14年後の1921(大正10)年、童謡「赤い靴」の詩を書きあげました。

 赤い靴 はいてた 女の子
 異人さんに つれられて 行っちゃった (「赤い靴」より)

かつて鳥居坂教会の孤児院があった、十番稲荷神社(2018年6月12日、國吉真樹撮影)

 この詩ができる10年前の1911(明治44)年9月15日、ひとりの少女が麻布十番に当時あった鳥居坂教会の孤児院(現在の十番稲荷神社にあった)で、わずか9歳の生涯を閉じました。その少女こそ「きみちゃん」でした。

 日本での任務を終えたヒュエット夫妻とともに、まさにアメリカへ向かおうとしていた時に、「きみちゃん」は当時不治の病といわれていた結核に侵されてしまったのです。「きみちゃん」の衰弱は激しく、麻布十番の孤児院に預けられたのち、ひとり寂しく亡くなりました。「きみちゃん」はアメリカに渡っていなかったのです。

倍賞千恵子のドラマで知った存在

「きみちゃん」の両親である、かよさんと志郎さんが札幌へ引っ越す2年前、1905年(明治38年)にひとりの男性が現在の新潟県上越市から上京してきました。名前は山本仁作(にさく)さん。当時19歳だった仁作さんは本郷にある足袋屋に弟子入りし、厳しい修行を耐えて、1911(明治44)年に自身のお店「山本仁作商店」を麻布十番に創業しました。

商店街に設置された、「きみちゃん」像への進路を示す看板(2018年6月12日、國吉真樹撮影)

 結婚後、娘ふたり息子ひとりの子宝に恵まれた仁作さん。長男には「仁壽(きみとし)」と名付けました。時は1941(昭和16)年10月25日。仁作さん55歳の時の子どもでした。仁壽さんは、「きみちゃん」像設置の日を落ち着かなく過ごしていた、あの山本さんです。

 終戦後、お店は1951(昭和26)年に洋品店に業態を変えて法人化。1965(昭和40)年に山本さんが後を継ぎ、1981(昭和56年)に「ローリエヤマモト」に改称していました。

「きみちゃん」設置の3年前にあたる1986(昭和61)年、山本さんは麻布十番商店街の広報部長として、忙しい毎日を過ごしていました。そんなある日、近所に住む知人が山本さんにこう話しました。

「この前テレビで、倍賞千恵子が出ていた『赤い靴はいた女の子』というドラマを見たんだけど、『赤い靴』のモデルになった『きみちゃん』って、麻布十番と関係があったらしいよ。静岡県の清水市(現・清水区)には、『きみちゃん』の像もあるんだって」

山本さんが保有する「きみちゃん」に関する資料の一部(2018年6月12日、國吉真樹撮影)

 その話を聞いて興味を持った山本さんは、さっそく清水市役所(現・清水区役所)に連絡。「きみちゃん」に関する資料を取り寄せました。自身でも、北海道テレビ記者の菊地寛(ひろし)さんが著したノンフィクション小説「赤い靴はいてた女の子」などを買って、勉強しました。
 
 当時、商店街の月刊広報誌「十番だより」の制作担当だった山本さん。このことをコラムとして誌面に連載することにしました。それからというもの、山本さんは「きみちゃん」に関するさまざまなことを毎月つづったのです。

(後編に続く)

きみちゃん像
東京都麻布十番2-3-7
東京メトロ南北線、都営大江戸線「麻布十番駅」から徒歩7分

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