カレーのお供として有名な福神漬。東京上野の老舗酒悦が生んだ福神漬は、非常にユニークな製法で作られています。しかもそのノウハウは徳川幕府の遺産。明治時代に戦争によって全国に広まった福神漬は、もともと戦争のために生まれた漬物でした。数奇な運命をたどった福神漬の歴史について、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。
東京上野生まれの福神漬は「漬物の繊維の煮物」
東京は上野にある老舗、酒悦(しゅえつ)が生んだ福神漬。

カレーのお供として有名なこの福神漬、非常にユニークな製法で作られています。
まず、原料が生の野菜ではなく、沢庵漬などの漬物。これを薄く刻んで、機械でプレスし、水分を絞り出して繊維だけを残します。
生の大根をプレスすると大根おろしになってしまいますが、沢庵漬ならば繊維だけが残ります。なので、漬物を原料としているのです。
その薄く小さい漬物の繊維を、醤油ベースのタレで煮ます。福神漬とは、漬物の繊維の煮物なのです。
なぜこのようなユニークな製法で作られているのかというと、福神漬とはもともと、缶詰にするために生まれた漬物だったからです。

缶詰化を目的に作られた福神漬
沢庵漬をそのまま缶詰にすると、殺菌するために高温で煮込まれて柔らかくなり、おでんの大根のようになってしまいます。漬物特有のパリパリ感が失われるのです。
現在は沢庵漬の缶詰も売られていますが、発売元の堂本食品では開発に三年もかけました。それほど漬物の缶詰化は難しいのです。
昔の原始的な技術でどうやって漬物を缶詰にするのか。その答えが、漬物を薄っぺらい繊維状にすることで、加熱時間を最短にし、パリパリ感を残すというものでした。
この漬物の缶詰化にはじめて成功したのが、山田箕之助(みのすけ)。徳川幕府の役職、漬物方の山田喜兵衛の息子でした。
福神漬は徳川幕府の遺産
江戸時代、と言うより第二次世界大戦までの日本の軍の兵糧は米が中心。戦前の陸軍でいうと一日六合、一回の食事で茶碗四、五杯分の麦飯を食べるという、米に偏重した食事内容となっていました。
大量のご飯を食べるのに必須なのが、食欲増進剤である漬物。したがって漬物は、軍にとって非常に重要な軍需物質でした。漬物がなければ戦争ができなかったのです。
ところが漬物は、米や麦ほどには長期保存ができません。温度変化にも弱く、ぬか漬けである沢庵漬などは、ぬかに空気が入るとすぐ腐ったりカビが生えます。
島原の乱に文化露寇。徳川幕府は遠距離の戦場における長期の漬物保存に苦心してきました。その様子が石井研堂(けんどう)の『明治事物起原』に描かれています。醤油漬にするというのが幕府が生み出した漬物保存ノウハウの一つ。これが福神漬に受け継がれます。

時は幕末。開国した日本は欧米列強との争いに巻き込まれます。遠い異国の戦場で、あるいは海軍の遠洋航海で、どうやって漬物を長期保存するのか。幕府は西洋の新技術、缶詰に着目します。
おそらく基礎技術は幕府時代に研究されていたのでしょう。幕府漬物方の山田喜兵衛が箱館戦争で死んだ後、息子の箕之助が醤油につけた漬物の缶詰化に成功。これを池の端某店、つまり酒悦に生産委託します(石井研堂『明治事物起原』)。
こうして徳川幕府の漬物缶詰化ノウハウが、酒悦に引き継がれたのです。
陸軍が自ら福神漬の缶詰を生産
そして福神漬が真価を発揮するときが来ました。日清戦争です。

日清戦争直後の酒悦の広告には、カビも生えず腐らない福神漬の缶詰を評価する、占領地の軍の医官の推薦文が掲載されています。

「腐らない」福神漬の缶詰を高く評価した陸軍は、自ら生産に乗り出します。そして日露戦争が勃発。
陸軍糧秣廠(りょうまつしょう)を取材した1904(明治37)年8月5日の朝日新聞の記事には、日清戦争時に採用された沢庵漬や梅干が、日露戦争では福神漬にとって代わられたとあります。福神漬は陸軍の主力漬物になったのです。
福神漬が嫌いになった森鴎外
作家森鴎外の嫌いな食べ物は、福神漬。

軍医として出征した日露戦争において、毎日福神漬ばかり食べさせられて、嫌気がさしたそうです(小堀杏奴『晩年の父』)。
日清日露戦争を通じて、全国から出征した兵士たちが、福神漬の味に親しみました。こうして東京上野生まれの福神漬は、全国に普及していったのです。
戦争のために生まれた福神漬は、戦争によって広まったのでした。