より正確な情報を伝えることに注力するゆえ、資料館や博物館は時として面白みに欠けてしまうことがあります。しかし江東区の深川江戸資料館は、そのような館とは一線を画すと都市探検家・軍艦島伝道師の黒沢永紀さんは言います。いったいどのような資料館なのでしょうか。
すべての展示物が撮影フリー
東京の下町、地下鉄の清澄白河駅から徒歩3分にある「深川江戸資料館」(江東区白河)は、江戸の街並みを体感できる資料館です。今回は、公立の施設とは思えないほどサプライズの数々が散りばめられた同館の魅力に迫ります。
都内には、江戸や長屋の街並みを再現した博物館がいくつかありますが、ミニチュアのジオラマや建物単体での展示などがほとんど。その点、この深川江戸資料館(以下、資料館)は、江戸の街並みをリアルサイズで再現しているのが大きな特徴です。
再現されたのは、資料館にほど近い佐賀町(現・江東区佐賀1丁目~2丁目界隈)の街並み。時代は天保年間というから、江戸末期の光景です。残念ながら、詳細な資料が関東大震災で焼失してしまい、完全な再現ではありませんが、『深川佐賀町惣絵図』をはじめいくつかの図絵を参考に再現したとのこと。
1986(昭和61)年の資料館の開館時、国内にはここまでの規模で江戸の街並みを実寸再現した博物館がなく、とても実験的な試みだっといいます。さらに、リアルな街並みを体感できるよう、館内には説明板が一切ありません。ほとんどの博物館では、展示物に隣接する無粋な解説板をよく見かけますが、そんなストレスも一切無用。
加えて、すべての展示物が撮影フリー。これもまた多くの博物館で、レプリカですら撮影禁止という意味不明な規則をよく見かける中、資料館は全館どこでも撮影できるのは嬉しいかぎりです。かなり広範囲にわたって建屋の中へも出入り自由。開館から30余年、多くの人が触れたり座ったりしたおかげで、木部の角が丸くなりてかりが浮き出したことが、かえって人が住んでいる感じを生み出しています。
最も驚くのは、開館時に「開館からすでに30年経過した」という設定で施工されたこと。展示物のエイジング加工は、当初から施されていたものだそうです。資料館の開館時、エイジング加工が施された博物館やテーマパークは、東京ディズニーランド(千葉県浦安市)を初めほんのわずか。そういった意味でも、先取りの展示だったのかもしれません。
いつ訪れても、常に違った体験ができる
それでは館内を少し見てみましょう。地下から2階までの高い吹き抜けに造られた街並みは、1階のコンコースから俯瞰できます。最初に出迎えてくれるのは、屋根の上で和むちょっと成長しすぎた猫。安政年間に、深川の寺に葬られた実在の猫「実助(まめすけ)」がモデルといいます。
階段を降りて展示スペースに入ると、もうそこは江戸の町。最初に見えてくるのは、大店(おおだな)が並ぶ大通り。日除け暖簾がかかる商店「多田屋」は、干鰯(ほしか)や魚〆粕(いずれも魚を原料とする肥料)、魚油の問屋(といや)。袖蔵を持つ豪勢な商家の様子が、細かなディテールまで見事に再現されています。
その向かいにあるのは八百屋の「八百新」。店頭に並ぶのはもちろんレプリカの野菜ですが、なんと季節によって陳列する品を変えているそうです。実は、この資料館では、野菜の置き換えに限らず、さまざまな季節の演出が施されています。
例えば運河沿いに育つ桜ひとつを取り上げても、春には花が咲き、夏は緑の葉を茂らせ、そして冬には枯れ枝となって、四季の風情を演出。加えて、近年では正月飾りや七夕、そして十五夜など、季節の風物も追加されて、いつ訪れても、常に違った体験ができる演出が施されています。
館内に流れる音響にも注目
また、目に見えるものだけではなく、館内に流れる音響にも細かな演出が施されています。例えば夏には蝉時雨(せみしぐれ)や夕立といった自然音から、金魚売りの声といった人の息吹を感じるものまで、そのきめ細やかな演出によって、街並みの体験がより一層リアルなものになります。そして、約20分で24時間が経過する照明効果も、リアリティに拍車をかけます。
八百新の隣には、裏長屋の木戸があり、その奥には長屋の住まいが再現されています。これらも九尺二間(くしゃくにけん。2.7m×3.6m)という長屋の基本的なサイズから、 室内に置いてある家具調度にいたるまで、徹底的な時代考証のもとに揃えられたものばかり。
長屋路地の真ん中には井戸とごみ溜(ため)、そして共同厠があり、今にも井戸端会議の声が聞こえてきそう。ごみ溜に捨てられた陶器のかかけらは埋立に使われ、また厠(かわや)の下肥は農家へ売り渡されて、長屋の管理費などに充当されていました。大通りには古裂(こぎれ)売りの竹天秤も展示されて、江戸のリサイクル生活を伝えています。
作り込まれた町人のストーリー
そして、この資料館の最大の驚きは、大店から裏長屋まで、そこに住んでいる人たちの物語が、しっかりと作り込まれていることです。
例えば裏長屋に住む、三味線や読み書きを教える於し津(おしづ)は、家具調度もしっかりしたもので、学のあることから武家の出ではないかと噂されている、とか。障子戸には、三味線の家元として知られる杵屋のマークが、しっかりと描かれています。
於し津の向かいに住む秀次は、舂米屋(つきごめや。精米店)の職人で3人家族。室内に玩具があることから、小さな子どもがいることが伺えます。玄関の上には「久松るす」と書かれた魔除けの紙が貼られています。久松とは、お染とともに巷説(こうせつ。うわさ)の主人公で、身分の違いから叶わぬ恋の心中物語。江戸時代、インフルエンザなどがはやると、人気のある人名を流感に付ける風習がありました。当時のインフルエンザの呼び名がお染だったので、「久松がいない = お染さんは来なくていい」という洒落の効いた魔除けというわけです。
また、秀次の隣に住む棒手振(ぼてふり。天秤棒で荷を担いで売り歩く職人)の政助は、木更津の漁師の三男坊。棒手振はもっとも手軽に始められる商いで、単身江戸に出てきたばかりの秀次は、あさりの棒手振で毎日仕事に精を出している、という設定。長屋はすべて借家で、玄関扉と畳は自前で用意しました。秀次の部屋に畳が無いのは、まだ仕事を始めたばかりで、畳を入れる余裕がないことを表しています。
江戸時代の長屋の共同生活から学ぶこと
すでにお伝えしたように、館内には一切説明板がなく、これらの物語は、館内に常駐のボランティアガイドさんたちが、詳しく解説してくれます。ボランティアの登録は200人にもおよび、各国語対応のガイドさんが常に何人もいる体制を整えているとのこと。
展示を詳細に記載した冊子も、オールカラー80ページの豪華版ながら500円というリーズナブルさ。入館時に購入して、冊子を片手に町並みを巡るもの一興です。
往々にして、資料館や博物館は、より正確な情報を伝えることに注力するゆえ、時として面白みに欠けてしまうことがしばしば。しかしこの資料館は、正確な情報が無かったことを逆手にとって、忠実な街並みの中に空想の物語世界を創り出しました。この絶妙なバランスこそ、資料館の最大の魅力だと思います。
資源のリサイクルをはじめ、モノを大切にする心や、他人が家族同然のように暮らす共同生活のルール。慢性的なデフレが続き、経済成長が横ばいになって久しい今、経済成長がほとんど無かったといわれる江戸時代の長屋の知恵が、とても役に立つ時代に来ているのかもしれません。
東京の原風景を再現した資料館から、学ぶことはたくさんありそうです。たまには涼しい資料館で、江戸の町に想いを馳せるのはいかがでしょうか。