浅草・雷門近くにある「神谷バー」。その名物は「電気ブラン」で、ルーツとなったものが誕生したのは1882年といいますから、歴史を感じざるを得ません。そんな「神谷バー」と「電気ブラン」について都市探検家の黒沢永紀さんが解説します。
震災と戦災を生き抜いた「浅草の生き証人」
地下鉄浅草駅の雷門口を出てすぐにある「神谷バー」(台東区浅草)は、1912(明治45)年開店、オリジナル・リキュールの「電気ブラン」でその名を知られる国内初で最古のバー。今回は、浅草の生き証人とも言える老舗のバーの話です。
江戸時代から戦前まで、常に東京一の繁華街として賑わった浅草。時に銀座に、時に新宿にその座を譲りながら、今では江戸文化と下町風情、和洋折衷と大衆文化を旗印に、最もインバウンドが訪れる場所。そんな浅草を象徴するような、台東区浅草一丁目一番一号に建つのが、神谷バーの入店する神谷ビルです。
周辺がアーケードなので、ビルの前を歩いていると気がつきにくいのですが、目の前の信号を渡れば神谷ビルの全貌を眺めることができます。
神谷ビルは、1921(大正10)年築、鉄筋コンクリート造4階建のモダンなビルで、当時世界を席巻した建築潮流のひとつ、ウィーン分離派とよばれる様式をベースに造られています。特に2階部分の円形窓とその下に続く直線的なデザインは、まさにその典型といえるでしょう。
上階の窓周りを除いて、建物の正面はタイルで覆われ、特に1階に貼られている、縦に引っ掻き傷を施したスクラッチ・タイルは、大正末から昭和初期にかけて爆発的に普及した、この時代特有のものです。
先の大戦で館内が全焼し、オリジナルの内装が失われてしまったのは残念ですが、創建当時の写真を見ても、その外観は基本的に変わっていません。関東大震災と戦災を生き抜いた神谷ビルは、まさに浅草の生き証人と言えるでしょう。
神谷バーの「神谷」とは……
そんな神谷ビルの1階に入店するのが「神谷バー」。バーといっても、暗い店内に高椅子のカウンターがあって洋酒を傾けるような一般的なバーではなく、いわば昭和の百貨店にあった大食堂の様な印象です。
店内はとても明るく、4人掛けから8人掛け程度のテーブル席がビッシリと並び、混雑してくると相席があたりまえ。店員さんが統一した制服を着用しているのも、大食堂感をあおります。
お客にはひとりで嗜む地元のご常連も多く、またグループの人々が顔を赤くしてワイワイと酌み交わすのも、まさに浅草らしい大衆文化。立ち飲みでもないのに、初対面のお客同士が会話をし始める光景もよくみかけます。
では、そんな大食堂の様でもあり大衆酒場の様でもある店が、なぜ“バー”なのか。それには神谷バーの歩みをちょっと紐解く必要がありそうです。
神谷バーの神谷とは、初代オーナー、神谷傳兵衛(でんべえ)氏の苗字。幕末に三河で生まれ、貧困に苦しんだ傳兵衛氏は、知多郡の造り酒屋の豪奢な建物を見て、将来酒屋を営むことを心に誓います。
いくつかの酒蔵や醸造所で働いたあと、麻布の造り酒屋で樽酒を売り歩いてコツコツと資金を貯め、浅草に間借りして酒の一杯売りの店を開店したのが1880(明治13)年のことでした。出身地を屋号にした「みかはや銘酒店」、これが神谷バーの前身です。
三河屋の経営である程度資金が貯まると、かねてより思い描いていた日本人好みの甘いワインの製造に着手。和洋の醸造所で働いた経験を生かしながら、輸入ワインを加工することで、廉価で飲み易いワインを完成させました。これが、電気ブランとともに神谷バーの看板商品となる「ハチブドー酒(正式名は蜂印香竄〈こうざん〉葡萄酒)」です。
またブドー酒に限らず、輸入酒精を加工した速成ブランデーも発売しますが、おりしも1882(明治15)年に東京でコレラが流行ると、コレラの予防に効くというキャッチコピーと共に爆発的に売れたこのお酒こそ、電気ブランの原型でした。
魑魅魍魎なカオスに包まれた大正時代の浅草
発売当初は「電気ブランデー」といい、電灯や電信電話、そして電気エレベートルなどが飛躍的に普及した明治中期、何にでも「電気」と付けるのが最先端だった流行にあやかったネーミングです。その後、リアルなブランデーではないことから「デー」を省略して「電気ブラン」に。現在、電気ブランは度数が違う二種類が販売され、店内では、度数の低い方をカタカナの「デンキブラン」と表記しています。
ちなみに、電気エレベートルというのは聞き慣れない言葉だと思いますが、要はエレベーターのこと。1890(明治23)年に開業した、当時東京で最も高い「凌雲閣」、通称「浅草十二階」に設置された国内初のエレベーターが、電気エレベートルと表記されていました。
ハチブドー酒と電気ブランで成功を納めた傳兵衛氏は、その後、酒造以外にもさまざまな事業に手を広げ、1903(明治36)年にはボルドーの製造法を取り入れた本格的ワイン醸造所「牛久醸造所」竣工させました。これが現在の茨城県牛久市にある牛久シャトーです。
そして1912(明治45)年、現在の地に「神谷バー」を開店。当初は、長いバーカウンターがいく本も並ぶ、まさに現代のバーに似た店舗でした。席の前には小さな電光掲示板があり、着席時は「いらっしゃいませ」と表示され、1杯頼むごとに数字が増えていくという“電気仕掛け”には、傳兵衛氏のアイデアマンとしての片鱗がうかがえます。
ほどなくして時代は大正デモクラシーへ。浅草がその歴史上で最も輝いた時代、それが大正時代だと思います。六区を中心に、数多くの活動写真館や浅草オペラの劇場が軒を連ね、愛活家(活動写真愛好家)やペラゴロ(浅草オペラファン)が連日闊歩した時代。
塔下苑と呼ばれた展望塔「凌雲閣」の麓では、銘酒屋(めいしや)の看板を掲げる私娼窟が妖しい光を放ち、見世物小屋を見るなら浅草へ行け、と言われるほど多くの小屋がかかるなど、まさにド派手なエネルギーと魑魅魍魎なカオスが混在したのが大正時代の浅草です。
熱狂冷めやらぬ愛活家やペラゴロが、時としてその興奮を増幅させたデンキブラン。現在の神谷ビルに改装されたのも、そんな浅草全盛期の真っ只中でした。
偽の電気ブランも販売された
改装の翌年、初代傳兵衛氏は他界し、後を継いだ息子(実際には養女の婿)の傳蔵氏が二代目傳兵衛を襲名しました。そして1923(大正12)年、関東大震災によって浅草は浅草寺の観音堂と浅草神社を除いて、全て焼失してしまいます。浅草のシンボルだった凌雲閣も、煉瓦造だったため、あえなく崩壊していまいました。
震災後、塔下苑は向島へ移転し、活動写真や浅草オペラも震災が幕を下ろしたように消えてゆきました。しかし、地下鉄の開通や、エノケン、ロッパによる浅草レビューとナンセンス喜劇で、再び不死鳥のごとく蘇るところが、浅草の底力とでもいうべきでしょうか。
やがて戦時下になり、1945(昭和20)年3月10日未明の東京大空襲で、浅草は一夜にして再び焦土と化してしまいます。大震災を生き抜いた観音堂も焼け落ち、遺ったのは鉄筋コンクリート造だった神谷ビルや浅草松屋百貨店、そして震災後に改築されていた仲見世通りの建物など、わずかにすぎませんでした。前述のように神谷ビルも、店内は完全に焼失してしまいます。
戦後の酒販統制の時代には、カストリやバクダンなどの闇酒にまじって、偽造の電気ブランも販売されたといいます。しかし、1949(昭和24)年に神谷バーが再開すると、かつてのバーを知る記者が続々と報じ、またたくまに客足が戻ってきました。またこの頃、酔い潰れた客を休ませるベッドを店内に用意したことが、人身荒廃の時代に心温まるエピソードとして報道されています。
浅草オペラ、そして浅草レビューと、常にステージショーで隆盛してきた浅草は、戦後もストリップショーの聖地として名を馳せますが、やがて高度経済成長からバブルの時代を迎え、“おしゃれな生活”に巷の感覚が変わると、“大衆”をウリにしていた浅草は“ダサい”町になり、客足も遠のいてしまいました。
イケてない時代も地元の人に守られた
昭和から平成へ時代は変わり、繁華街の主役は新宿を中心にした東京の左半分へ。当初は、時代に迎合的な町おこしを試行錯誤するも、その多くが失敗し、そこから学んだのが“浅草らしさ”を前面に打ち出すことでした。
目まぐるしく変化する東京の中で、たとえ戦後のものだとしても、江戸情緒や下町風情、そして明治から続く和洋折衷な大衆性を前面にアピールした浅草へ、インバウンドが大挙して押し寄せるようになり、現在の大観光地・浅草の時代へとつながっていきます。
そして、そんな浅草の100年を通して、時に震災や戦災に疲れた心を癒し、時に浅草オペラや活動写真の興奮に油を注ぎ、イケてない時代も地元の人に守られながら、浅草の変遷を糧にこんにちも営業を続けるのが神谷バーです。
神谷バーへ行かれたことのある人もない人も、浅草の生き証人といえる神谷バーで激動の時代へ思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。お酒の飲める人は、ぜひデンキブランを一献傾けてみてください。