62年前の1958年に開業した東京タワー。東京スカイツリーができた今でも、その魅力は一向に衰えていません。その背景について、フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。
今なお色あせぬ、東京の「シンボル」
1958(昭和33)年に開業した東京タワーは、今でも東京の「シンボル」でもあり、観光名所としても親しまれています。その東京タワーを設計したのは建築家の内藤多仲(たちゅう)です。
内藤は東京タワーのほか、前身ともいえる日本放送協会の愛宕山放送局鉄塔を手がけています。その後、名古屋テレビ塔、2代目通天閣、別府タワー、さっぽろテレビ塔、博多ポートタワーなども設計し、「塔博士」と呼ばれました。
国内の電波塔として抜群の知名度を誇る東京タワーですが、それ以前より、名古屋テレビ塔や別府タワー、さっぽろテレビ塔といったテレビ・ラジオの電波塔は建設されていました。
東京タワーはそれらに続く計画でしたが、東京タワーの計画が持ち上がった背景には、当時の電波事情が大きく起因しています。
電波塔の乱立で電波が届かない事態に
戦後復興を遂げた日本社会は、昭和30年代から経済成長の道を突き進んでいきます。生活レベルも向上し、社会も成熟していきました。そこにこつぜんと現れたのがテレビという新たな文明の利器でした。
テレビは高価だったことから、当初は多くの人が街頭に設置されたテレビで野球やプロレスといった中継を楽しみました。しかし、次第に家庭にテレビが普及します。それと同時に、番組を供給するテレビ局の開局も相次ぎました。

当時、テレビ各局は家庭に電波を届けるために、自前で電波塔を建設しました。そのため、東京にはテレビの電波塔が乱立してしまうのです。しかし、テレビ各局が建設した電波塔は高さが足りず、そのために千葉・埼玉・神奈川の全域には電波が届かないという事態が起こります。
東京および近郊でしかテレビ番組を届けられない状態は、テレビの購入者から不満が噴出することになりました。
持ち上がった総合電波塔構想
他方、番組の制作者であるテレビ局側も、せっかく制作した番組を見てもらえなければ広告収入を増やすことが難しくなります。
テレビ各局は電波を広範囲に届けるために、高い電波塔の建設に動き出します。しかし、当時は現在ほど高い建物はありません、そのため、高い電波塔は目立ちます。電波塔が乱立すれば、都市景観が悪化することは明白です。それが住民から反発を招くことになりました。

そこで持ち上がったのが、テレビ・ラジオなどの電波を集約する総合電波塔の構想です。これが後に東京タワーの計画へと進化を遂げていきます。
デザイン性重視の風潮を変えた関東大震災
東京タワーの設計を任されたのが、前述の早稲田大学教授の内藤多仲です。東京帝国大学を卒業した内藤は、将来を期待された優秀な建築家でした。
内藤が大学を卒業したばかりの明治期、日本社会は欧米諸国に追いつけ追い越せの風潮が強く、建築家にも西洋建築のようなしゃれた建物をつくることが求められていました。つまり、建築物はデザイン性が重要視されていたのです。
優秀な建築家だった内藤ですが、デザインのセンスはそれほど抜きんでていたわけではありません。将来を嘱望されながらも、建築界のデザイン性を重要視するという風潮に埋没しかけていたのです。
しかし、内藤の運命を大きく変える出来事が起こります。それが、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災でした。

関東大震災の発生により、浅草の名所になっていた高層建築物の凌雲閣(通称:浅草十二階)は倒壊。そのほか、多くの建物・家屋が全半壊しました。関東大震災では多くの家屋が火災によって焼失しましたが、倒壊による被害も甚大だったのです。
関東大震災の教訓から、デザイン性から耐震性・防火性などを重要視する風潮へと切り替わっていきます。
塔の耐震性と災害情報の正確さの関係性
デザインを不得意としてきた内藤ですが、耐震などの構造設計は得意分野でした。実際、内藤が手がけた日本興業銀行本店や歌舞伎座などは関東大震災でも倒壊していません。こうしたことから、内藤の手腕が再評価されることになったのです。
そして、内藤のもとには大プロジェクトの依頼が次々と舞い込むようになりました。

特に、内藤にはテレビ・ラジオの電波塔の計画依頼が多く寄せられています。それには、きちんとした理由があります。
関東大震災では、正確な情報が伝わらず、そのために東京・横浜の行政・市民は大混乱に陥りました。
また、東京から遠く離れた都市でも、誤った情報やうわさ話に尾ひれがついた流言飛語が飛び交い、無用な混乱が起きています。関東大震災は災害情報を正確に伝えるという、情報伝達の重要性を再認識させる災害でもあったのです。
そうした背景から、特に電波塔は地震や火事に強いことが求められるようになりました。内藤のもとに電波塔の計画が次々と持ち込まれるようになったのは、そうした背景があります。
今では年間300万人が訪れる観光名所に
こうして電波塔を次々に手がけ、そして東京タワーの設計も任されました。東京タワーを国内屈指の総合電波塔にするべく、内藤はあらゆる面で奔走します。
内藤は名古屋テレビ塔が入場料で建設費を賄ったケースを踏襲し、東京タワーにも展望台を設置します。この展望台で入場料を稼ぐといったビジネスモデルを考えたのです。
東京タワーは総合電波塔としての役目だけではなく、現在は年間300万人が訪れる東京に欠かせない観光名所になっています。

東京タワーの収入は電波塔としてテレビ局・ラジオ局から収入を得ているほか、観光客による入場料、お土産販売、レストラン・カフェによる飲食関連の売り上げも大きなウエートを占めています。
そのため、東京スカイツリーに総合電波塔の主役を譲っても、東京タワーは堅調な経営を維持しています。内藤が考えていた「観光収入という経営安定策」が、もくろみの通りに東京タワーを収入面で支えているのです。
そうした観光面による収入は、東京タワーが東京都心部に立地していて目立つから、眺望のいい高層のタワーだからということだけが理由ではありません。そうしたメリットにあぐらをかかず、多くのリピーターを引きつけるべく東京タワーは絶えず経営努力をしているのです。
2020年は内藤の没後50年
東京タワーは完成間もない頃からイルミネーションを実施してきましたが、1965(昭和40)年からは連夜にわたってイルミネーションを実施するようになっています。
そのイルミネーションは歳月ととともに進化し、それが東京都心部の夜に欠かせない風景にもなっています。
東京タワーの集客戦略は、イルミネーションだけではありません。ほかにも、時代に合わせた新しい集客方法を次々に打ち出しています。
1998(平成10)年には、“ゆるキャラ”の「ノッポン兄弟」が登場。ゆるキャラブームを大幅に先取りした取り組みだったため、ノッポン兄弟の人気に火がつくまでには時間がかかりました。しかし、近年のゆるキャラブームもあって、今では根強いファンを獲得しています。

2015年には民泊ブームを追い風に、東京タワーに宿泊するイベントを実施。抽選で選ばれた人限定のイベントでしたが、好評を博しています。こうした取り組みが、今もなお東京タワーが多くの人を魅了する理由になっています。
東京タワーを生んだ内藤は、1970年に没しました。2020年は内藤の没後50年にあたります。
内藤の没後も、建築技術は進化を遂げてきました。いまや東京タワーをしのぐ高い建物は海外だけではなく、国内にも多く建設されています。もはや、東京タワーは特別に高い塔ではありません。
それでも、東京タワーが放つ輝きや特別感は色あせていません。今も多くの人たちを魅了しているのです。