10月10日(日)23時15分から、フジテレビ系列で『テレビアニメ「鬼滅の刃」無限列車編』が放送されます。これを記念して、『鬼滅の刃』と縁の深い浅草でかつて食されていたB級グルメについて、著書にラーメンの起源を解明した『お好み焼きの戦前史』がある食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。
炭治郎を叱ったうどん屋台の主人
人気マンガ『鬼滅の刃』。主人公・竈門炭治郎(かまど たんじろう)は、浅草のうどん屋台で山かけうどんを注文します。ところが、うどんを食べる前に宿敵・鬼舞辻無惨(きぶつじ むざん)の匂いを察知。うどん屋を離れて鬼舞辻を追います。
鬼舞辻を見失ってうどん屋台に戻った炭治郎は、屋台の主人にこっぴどく叱られます。
「金じゃねえんだ、お前が俺のうどんを食わねって心づもりなのが許せねえのさ!!」
この主人、自分が作るうどんに対して、強いこだわりを持っているようですね。
それもそのはず、この時期の東京で本格的なうどん屋台を出すというのは、かなり珍しいこと。
大正時代は鍋焼きうどんが主流
大正時代の東京のうどん屋台といえば、小さな鍋にうどんと具材を入れて煮込んだ鍋焼きうどんが主流でした。
ただでさえそば文化が優勢な東京において、本格的なうどん屋台で勝負をかけるわけですから、「俺のうどんを食わないなど許さない!」と強い意気込みを持っているのも当然といえます。
しかしながら、うどん屋主人の背後には、手ごわいライバルの影が迫っていたのです。それはラーメンの屋台。大正時代の東京では、鍋焼きうどんの屋台にかわって、ラーメンの屋台が栄えようとしていました。
あの大作家もラーメンの屋台をひいていた
東京では日露戦争終戦後(1905年~)ごろから、ラーメンの屋台が夜の町をめぐるようになりました。ミステリ作家の江戸川乱歩(えどがわ らんぽ)も、作家デビュー前の大正時代の東京でラーメン屋台をひいていました。
「支那ソバ屋――と云(い)ってもあのチャルメラを吹いて、車を挽(ひ)いて歩く奴だ。一と晩に十円売上げがあると七円ぐらい儲かった」(江戸川乱歩『わが夢と真実』)
チャルメラとは、インスタントラーメン明星チャルメラのおじさんが吹いている笛。この独特の笛の音が聞こえると、家にいながら「ラーメン屋台が近くに来た」ことがわかるわけです。
当時ラーメンは「支那そば」あるいは「南京そば」と呼ばれていました。日本そばしか知らない炭治郎は、「そば」という文字を見て、日本そばの一種と勘違いしたかもしれません。
もし炭治郎がうどん屋台ではなく、支那そば屋台に入っていたら、
「東京のそばって、かわっているなあ……」
と、首をかしげたことでしょう。
浅草はラーメンの聖地だった
1913(大正2)年の雑誌『経済時報11月号』の記事「南京蕎麥屋」には次のように書かれています。
「普通の蕎麥屋と同じく南京蕎麥屋が巾(はば)を利かせ殊(こと)に淺草公園などは來々軒、東京亭、石川バーなど續々(ぞくぞく)開業普通の西洋料理店で兼業にするやうになつた而(しか)して鍋燒饂飩(うどん)のやうに晝夜(ちゅうや)行商して居るものも尠(すくな)くない」
1910(明治43)年に浅草で開店した「来々軒」により、大衆的中華料理のブームが巻き起こり、炭治郎が訪れたころの浅草はラーメンの聖地となっていました。
ラーメン店舗(南京そば屋)、ラーメン屋台が増えただけでなく、西洋料理店までラーメンなどの中華料理を兼業するようになります。
文中にある「石川バー」とはおそらく「石村バー」の間違いでしょう。バーといいつつ実態は大衆的な食堂でした。大衆食堂が和洋中さまざまなメニューをそろえ始めたのは、大正時代の浅草においてなのです。
うどん屋台の店主はどうなった?
東京商工研究会編『不景気知らず千円開店法』によると、この本が発行された1930(昭和5)年頃には、東京の鍋焼きうどん屋台はラーメン屋台に取って代わられてしまったようです。
「冬から春先へかけて、毎夜街から街へと流して歩いた「鍋焼うどん」も、この頃では、すつかりこの支那そば屋のチャルメラに吹きまくられてほとんどその姿を見せなくなつた」
あのこだわりのうどん屋台店主も、ラーメン屋台に負けて廃業してしまったのでしょうか?