「牛鍋」と聞くと、現在のすき焼きを思い出す人が多いですが、実際のところは少々異なるようです。食文化史研究家の近代食文化研究会さんがその歴史について解説します。
「牛鍋 = すき焼き」ではない?
アニメ『鬼滅の刃 無限列車編』で煉獄杏寿郎(れんごく きょうじゅろう)が「うまい!」「うまい!」と食べていた牛鍋弁当。この「牛鍋」とは、どのような料理だったのでしょうか?
牛鍋は現在のすき焼きとよく説明されますが、『鬼滅の刃』の舞台である大正時代の牛鍋は、現在の関東風すき焼きとは異なるものでした。
グルメで知られていた作家・池波正太郎によると、戦前の東京の牛鍋は次のようなものだったそうです。
「(割り下を)最初に敷く。それでパーッと沸騰してきたら肉を取る。ほとんどしゃぶしゃぶのような煮え具合で食うわけです」(すきやき『完本池波正太郎大成 別巻』所収)
醤油とみりんで作った割り下を鍋にひいて、その上で肉をさっと焼いて、しゃぶしゃぶのようなミディアムレアの状態で食べる。これが戦前の牛鍋の食べ方でした。
食通による戦前の牛鍋調理法
この食べ方は池波正太郎独特のものではなく、一般的な牛鍋の食べ方でした。
「鍋に用意のタレをまず入れ、先にねぎなどを入れて、少し煮たってきたところへ肉をさっと入れる。まん中に血がたまったらすぐに裏返して、返したらほんのひと呼吸で引き上げる」
これはグルメで知られた役者・八代目坂東三津五郎の「東京の昔ながらの牛鍋の煮方」(『食い放題』)。
「肉が鍋に焦げ着かない程度にたれがあつて、焼くのが主で煮るのは從(じゅう)でなければ旨(うま)くない。だから肉はなるたけ薄く切つて、必ず鍋に直接乘せたまま、肉の上の面が半煮えになつた時が喰べ頃だ」
同じくミディアムレアで「焼く」のが食通で知られた華族・大河内正敏の食べ方(『味覚』)。1878(明治11)年生まれの大河内が学生の頃から親しんでいた、明治時代半ば以降の東京の牛鍋です。
「東京流の牛鍋は、牛肉を煮るというよりは、半熟にして食うという方がよい。それは、鉄の平鍋を、備長の炭火へ乗せ、焦げつかぬ程度にタレを入れ、その上で牛肉を一枚ずつ裏表を捺(こ)する。そうすると、肉の表面だけが白くなって、内はまだ赤味を帯びている。それをそのまま、頬張るのだから血の出るビフテキを食うのと同じ格だ」
これも食通で知られた政財界の大物、1858(安政5)年生まれの波多野承五郎が説く、東京流牛鍋の食べ方です(『食味の真髄を探る』)。
「牛鍋」元祖は大阪
これらはあくまで、一流の肉を使う一流の牛鍋の食べ方。池波正太郎が「よく行ってた居酒屋風の昔からの飯屋」の安い牛鍋は、「小さな真鍮(しんちゅう)の鍋に、肉と野菜を一緒に入れて、ダシを張ってガスでバーッとやる」という雑な料理でした。
さて、大正時代における「牛鍋」とは東京など関東の料理。その頃の関西では牛鍋ではなく「すき焼き」とよんでいました。
ところが資料上の「牛鍋」の初出は、大阪におけるものだったのです。福沢諭吉が幕末の大坂で食べた「牛鍋(うしなべ)」が最古(1855年~)の証言です(『福翁自伝』)。
「牛肉のすき焼き」元祖は東京
一方、「すき焼き」の最古の資料は東京におけるもの。戯作者・仮名垣魯文(かながき ろぶん)の『安愚楽鍋』(1871~1872)に、牛鍋とは別の料理として「すきやき」が登場します。
この明治初期の東京のすき焼きとは、牛脂を塗った鍋で肉を焼く鍋焼き肉でした。
1884(明治17)年生まれの歌人・小泉迂外(うがい)によると、「東京生まれの者がすき燒といふのは、空鍋(あきなべ)に脂肪を引いて肉を焙(い)つて食べることである」(幼きころの印象 小泉迂外『食道楽 昭和15年5月号』)。
1894年生まれの文化史研究家・植原路郎(ろろう)も、東京のすき焼きは鍋を使った焼き肉であったと証言しています。
「明治時代には、鍋は円形または小判型で、片側へ寄ったところに、これまた小判型の浅い凹(へこ)みがつけてあるもの、また、鍋のまん中に浅い円型の凹みのあるのもあった。これは本来の「すきやき」用であることはいうまでもない」
「元来この凹みのある鍋は、凹みの中で暖まったワリシタを肉につけて、平面のところに脂をしいておいて、そこで焼きながら食べる式のものである」(『鰻・牛物語』)
すき焼きと牛鍋が合体
この東京のすき焼き、明治時代中期以降次第に資料に登場しなくなり、ついには消えてしまいます。
しかし、東京のすき焼きは消えたのではなく、牛鍋と合体したのではないかというのが私(近代食文化研究会)の考えです。
明治初期の牛鍋は煮る料理、すき焼きは焼き肉料理。
明治中期以降、この牛鍋とすき焼きが合体し、「さっと焼くようにして煮る」焼きしゃぶしゃぶの牛鍋になったのではないかと思います。