9月25日(土)21時から、フジテレビ系列で「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」がテレビ初放送されます。これを記念して、『鬼滅の刃』と縁の深い浅草でかつて食されていたB級グルメについて、著書に『串かつの戦前史』がある食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。
B級グルメの聖地だった浅草
人気マンガ『鬼滅の刃』。人間を鬼から守るために作られた「鬼殺隊」に入隊した主人公・竈門炭治郎(かまど たんじろう)は浅草に向かい、そこで鬼たちを支配する敵・鬼舞辻無惨(きぶつじ むざん)に思いがけず出会います。
その後、炭治郎と妹の禰豆子(ねずこ)は手下の鬼たちと戦い、これを退けますが、次の任務に向かう前に、少しは浅草を楽しむ余裕もあったかもしれません。
1915(大正4)年、1916年の浅草は、子どもの小遣いでも楽しめるB級グルメの聖地でした。例えば、商店に奉公している小僧たちはたまの休みになると路面電車で浅草にでかけ、映画(活動写真)を見たり、安価な食べものを堪能したりしました。
子どもたちの小遣いでも買えたのが、大衆の街・浅草のB級グルメです。炭治郎も自分と同じ年代の子どもたちがおいしそうに食べているのを見て、ついつい買い食いしてしまった、ということがあったかもしれません。
串かつの本場だった大正時代の浅草
「深川の高橋の通りは、夜店がにぎやかだったですよ。あそこで、子供のとき、初めて洋食ってのを食べた。串かつだよ。二銭だったか、四銭だったか忘れたけど、子供が洋食食べたんです」(『江東ふるさと文庫6 古老が語る江東区のよもやま話』)
これは炭治郎より少し年下の1903(明治36)年生まれ、岡島啓造さんの思い出話です。
串かつというと大阪生まれのように思われがちですが、実は明治時代末から大正時代初めの東京で生まれたものだったのです。
生まれた頃の串かつは、東京では「フライ」と呼ばれていました。このフライ屋台が多く並んでいた場所が、浅草。
鬼舞辻無惨との巡り合った場所付近に並んでいた串かつ屋台
1902(明治35)年生まれの久我義男さんは、ちょうど炭治郎たちが上京した頃の浅草で、串かつを食べていました。
「大正四、五年から八年頃は、露店で牛めしが三銭から五銭、焼トリは一銭で二本。私は露店の焼トリの中では、肉フライというのが好きでした。油がなくて紫色をしたきれいな肉で、それを中へさしてパン粉をつけてあげて二銭でした。ただのフライてえと、ネギと肉と交互にさしてフライにしてくれる。で、ソースが共同でドブンとつけてたべる。それが好きでね。そういうのが、いまの伝法院の西側の庭の塀にずっと並んでいたわけです」(台東区立下町風俗資料館編『古老がつづる 下谷・浅草の明治・大正・昭和 1』)
文中の「伝法院の西側の庭の塀」とは、現在のホッピー通りのことです。
大正時代、ホッピー通りがあった伝法院横の通りには、串かつ屋台がずらりと並んでいました。
「傳法院横、玉木座前のフライ屋。ジユーツジユーツと油の音をさせて串フライをあげてゐる」
「一頃は、あの消防の處から、パウリスタの前角まで、悉く(ことごとく)此(こ)の串フライ屋で、其處(そこ)を通ると、ずツと並んでジユージユーと競争してゐる圖(ず)は實(じつ)に異觀(いかん)だつた」
「そして油じみたのれんをくぐり、油の匂ひを嗅ぎながら、肉の小片と葱(ねぎ)とを交互に挿した串の揚げたての奴を、ソースの皿の中にひたして、かぶりつく。その影が又のれんに動いてゐるのはとても面白いものだつた」(添田唖蝉坊『浅草底流記』)
実はこのホッピー通り、炭治郎が鬼舞辻無惨と遭遇したと思われる(アニメ版から推察)浅草六区のすぐ近く、東に2本入った通り。
嗅覚に優れた炭治郎のこと、あたりに漂う串かつの香りも感知していたかもしれません。
串かつはなぜ串に刺さっているのか?
この画像は、1921(大正10)年の吉岡鳥平著『甘い世の中』に登場する東京の串かつ屋台の挿絵。
ずらりと並んでいる瓶は、洋酒の瓶。といっても、アルコールに香料を混ぜたニセウイスキーやニセブランデーです。串かつをつまみに、コップに入れたニセ洋酒を飲むわけです。
ご覧のように、カウンターも机もない狭い屋台。コップを置く場所はないので、常に片手に持って立ち飲みしなければなりません。
片手がコップ酒でふさがっているため、もう一方の手だけでカツレツを食べられるように、串かつは一口大サイズで串に刺さっているのです。
コップ酒と串かつで両手がふさがってしまうと、今度はソース瓶を持つことができません。そこで3~4個の肉が刺さった串か漬かるほどの大皿にソースを満たし、ドボンと漬けて食べるようにしたのです。
ソースは共用ですから、食べかけの串かつをもう一度漬けるのはマナー違反。こうして2度漬け禁止ルールが生まれました。
実はこの
・ソース共用
・2度漬け禁止
という習慣、東京のにぎりずし屋台の醤油や天ぷら屋台の天つゆで行われていました。東京の人間にとってはおなじみの習慣だったのです。